杉野芳子ものがたり|杉野服飾大学・杉野服飾大学短期大学部 同窓会

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杉野芳子ものがたり

1892年(明治25年)

1892年(明治25年)
千葉県匝瑳郡南条村字柴崎(現在横芝光町)の旧い地主の家に生まれる。
姓は岩澤で母一人の家庭で育つ。
五歳で小学校へ入学、先生から海の向こうのアメリカの話を聞き憧れを持つ。
小学生のころ手先の遊びをしていたが、いちばん好きだったのは人形作りだった。
1913年(大正2年)

県立千葉女子高等女学校に入学、卒業後鉄道省最初のOL・小学校の先生になる。自立できる別な仕事には、何があるだろうか。「アメリカへ行けば何かあるに違いない」とアメリカ行きを決心する。

1914年(大正3年)

1914年(大正3年)
芳子22歳、娘一人着物に袴姿でアメリカへ渡る。
着物では過ごせないアメリカで、自分に似合う洋服を習い身に付ける。写真は初めての洋装。

1916年(大正5年)

1916年(大正5年)
クリスマスパーティでスタンフォード大学出身の建築技師杉野繁一とめぐりあい大正6年結婚。繁一は30歳、芳子は25歳。
繁一の生家は愛知県海部郡佐屋村(現愛西市)の地主でした。中学を出たばかりで「アメリカへやってください」と両親に頼み、青雲の志に燃えて渡米した。苦学しながらスタンフォード大学の建築科を卒業しニューヨークの鉄道会社に勤務。
1920年(大正9年)

7年近いアメリカ生活を経て帰国、赤坂新町に新居を構える。繁一は、ファーグソン建築会社支社に勤務し、マツダランプやフォードの工場その他の建築を手がけ手腕を認められていく。芳子はアメリカ仕込みの完全主義で家事をこなす主婦で、忙しい毎日を過ごす。
そうした中でも「これからは、どうしても活動的で手軽な洋装生活でなければいけない」という考えが深まり、やがては「せめて私のできる範囲の洋裁でもいいから皆さんにお教えして、便利な生活をしていただきたい」という考えに発展していく。しかし、その考えが実現することもなく1年、2年と過ぎていった。
1923年(大正12年)

関東大震災を経て、女学校の制服もぼちぼち洋服にするところがあり、ウエイトレスや電話の交換手など女子の職場の制服に洋服が取り入れられるようになった。「アメリカで身をもって知らされた洋服の良さを一般の女性にも知らせて、洋服を普及させたい」そのために先ず洋裁塾を開きたいと思い続ける。
1926年(大正15年)

ドレスメーカースクールを始める。
生徒はたった3人、11月2日上大崎に移り、ドレスメーカー女学院と改めて授業を開始する。生徒は13人となる。
わかりやすい教育法の創案、視覚に訴える教育を目指す。

1926年(大正15年)

1926年(大正15年)〜
読売新聞家庭面に毎週杉野芳子の洋裁記事が34回にわたり連載される。「型紙」付き記事は洋装の普及に貢献した。
1927年〜1930年(昭和2年〜5年)

速成科、研究科、洋服本科、師範科を開設。
学校名が「ドレメ」という略称で呼ばれるようになる。
1929年(昭和4年)

洋裁の入り口としてのY・Sパターンの創案。
 「ドレメ式原型」を開発し、これを用いて裁ち方、使い方を教える。
 ファンデーションドレスの学習をとおして、服の形を見極め整えるために必須な仮縫い(フィッティング)を身に付けるように指導した。
  • YS パタン

  • 原型

卒業制作のドレスを着て

1931年(昭和6年)
卒業式後、自作のパーティードレスで装った生徒たち。当時の速成科80名全員が卒業制作にドレスを作った

新校舎

1932年(昭和7年)
開校7年目学校の発展に伴い、夫繁一を理事長に迎えて協力を得られるようになる。
以後校舎や体育館、衣裳博物館、夫妻の自宅(現杉野記念館)等を設計・建築した。
芳子は教育一筋に打ち込む。

通学風景

1934年(昭和9年)
『D・M・J会誌』(ドレスメーカー女学院会誌)を創刊。
内容は、新しい服飾の傾向がわかる編集で、新鮮なセンスを生かしたスタイルを着こなしたドレメタイプの写真や、デザイン画よるスタイル集も掲載した。

日本初のファッションショー

1935年(昭和10年)
日本で最初のファッションショーを日比谷公会堂で開催する。
以後定期的にファッションショーや講習会を開催し作品を披露した。

ニースにて

1937年(昭和12年)
欧米のファッションとその教育法を広く視察し、研究する。アメリカの訪問の洋裁学校7校は校長自身がその道の専門家である点を確認。パターン会社の視察。『ヴォーグ』等の編集者から『DMJ会誌』の賛辞を得た。フランスではデザインと造花や裁断を学び、更にウォルト、ジャンヌランバン、スキャパレリ、デピュイと会見した。

立体裁断

1938年(昭和13年)〜
帰朝後1/2の小型スタンドを用いた立体裁断をとり入れる。戦時下物資の不足の中、服飾の荒廃を食い止める努力で芳子のアイデアのあれこれがデザインされ更生服になった。
1939年(昭和14年)

帰朝の最大のみやげはデザイナー養成科であった。
優秀なデザイナーを養成しすぐれたデザインがどしどし発表されていく様にならなければとの思いからの設置であった。

団服

1942年(昭和17年)
防空服としてデザインし制定したオーバーオール形式の学院のユニフォームを着て銀座街頭を行く生徒(朝日新聞掲載)

出願

1945年(昭和20年)
終戦から1週間余りしかたたない日、一人の生徒が訪ねてきて学校の再開を訴えた。
再開しなければと思う中申し出る生徒は日ごと増えるばかりだった。

授業

1946年(昭和21年)
1月8日願書受付、出願の列の長さにMP(アメリカ軍警察)が何事かと出動した。1000人で受け付けを締め切った。
校舎が足りないので、4部制にして4月から本科、師範科の授業を再開した。

DMJ会誌

1947年(昭和22年)
戦後初めての作品展覧会とショーを行った。
モンペや更生服しか知らなかった人達に夢と希望を与えた。
『D・M・J会誌』が復刊される。編集方針も幾多変遷があったが、ニューデザイン中心に、在校生にも、卒業生にも教科書の代わりになる根本の編集態度は変わっていない。
『ニューデザイン独習書』が発刊される。

ドレスメーキング

1948年(昭和23年)
ドレメ出身の指導者の人達にも、最新の知識を習得してもらうため、昭和23年8月以来夏期講習会(リフレッシュ教育として現在も続いている)を開催した。
個人立より財団法人となる。夜間部を設置し、通信教育を開講した。

芳子が監修する洋裁専門誌『ドレス
メーキング』が鎌倉書房より創刊される。
1949年(昭和24年)

デザイナー養成科を再開する。
1950年(昭和25年)

短期大学制度の創設を機に杉野学園女子短期大学被服科を開設した。
財団法人より学校法人となる。

ピエールバルマン

1954年(昭和29年)
パリオートクチュールの巨匠とまでいわれていたピエールバルマン、クリスチャンディオール、ジャックファットなどに学院生のデザイン審査を依頼するなど親交を持った。

胸像

1955年(昭和30年)
創立30周年を記念して、杉野夫妻の胸像を同窓生より贈られる。

小菊

1957年(昭和32年)
ベニスで行われた「国際コットン・ショー」に出品した杉野芳子作品
”小菊”が日本代表作品としてシャルム賞を受賞した。

衣裳博物館

1957年(昭和32年)
創立30周年を記念して衣裳博物館を開館する。
翌年博物館相当施設に指定される。
フランス政府からクロワ・ド・シュバリエ(教育功労章)を受賞する。
1961年(昭和36年)

ドレスメーカー女学院に男女共学のドレスメーカー養成科(2年制)を開設する。
1964年(昭和39年)

4年制の杉野学園女子大学(現杉野服飾大学)を開設する。
1968年(昭和43年)

ドレスメーカー女学院に職業科(3年制)を開設する。
1971年(昭和46年)

日野校地に杉野幼稚園を開園する。

夫妻

1973年(昭和48年)
杉野繁一逝去。
享年85歳
1887年(明治20年)生まれ
学校法人杉野学園理事長
正五位勲三等瑞宝章

1978年(昭和53年)

杉野芳子逝去。
享年86歳
杉野芳子 1912年(明治25年)生まれ
杉野女子大学・杉野女子大学短期大学部学長
ドレスメーカー学院長
杉野幼稚園園長
正五位勲三等宝冠章

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